社地はやや高い場所に鎮座、大和神社の森は極めて大きく長い。東側の一の鳥居から参道が200m位続いている。巾は30m程度である。 社殿のある杜は大きく広がっている。首の細長い壺のような神域である。しかし、かっては
八町四方と巨大な神域であり、四至を固めていた神社があった。
【四至の固め】(耕作地・所有地・社域などの四方の境界)
南西の固め : 素盞鳴神社(新泉町)の元の鎮座地(一本木さん)
新泉町の素盞鳴神社は、元は、字南池辺の小丘に鎮座して「一本木さん」と呼ばれていました。
昭和17年に柳本飛行場が作られたとき、現在の場所に移されました。
南東の固め : 素盞鳴神社(成願寺町)
北東の固め : 素盞鳴神社(佐保庄町)
北西の固め : 福智堂町の市杵島神社(現在この地は、畑となっておる。)
明治42年に永原町の御霊神社に遷座
神域の大きさは、
76万㎡ (東京ドーム16個分になります。)
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☆ 萱生(かよう)町の名前の由来
萱の生えている地。麻生・瓜生・柳生などと同じ命名法である。村の東北に草山という山がある。
この山に限らず、この辺り一帯は古墳地帯であるから一面に萱の生えた所があったので名付けられた。
☆ 萱生町の村社(菅原神社)紹介
萱生環濠集落の中央「堂の山」に鎮座します。
創建由緒など不詳ですが、室町時代にはあったと思われます。
祭神;菅原道真
「堂の山」は横穴式石室を持つ古墳です(空路宮山古墳)
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☆ 中山(なかやま)町の名前の由来
平地へ丘陵の突き出ている地形から来た名である。中山中楽寺という奈良朝時代創建の大きな寺のあった地で、中山の名にふさわしく、昔はこの地方の中心の地であった。
☆ 中山町に鎮座する歯定神社の紹介
春日造りの本殿に切妻造りの拝殿を備える。
祭神
大己貴神(おおなむちのかみ)
少彦名神(すくなひこなのかみ)
例祭 1月15日
拝殿前に、石が3個据えられている。人の前歯や犬歯、臼歯を連想させる形の石である。
医療の神、少彦名神(すくなひこなのかみ)を祀ることから“歯の神”と言われている。また、古くは、“葉状神社”と呼ばれ、農業・特に葉物野菜の種蒔きに際して、当社に豊作を祈願したともいう説もある。
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☆ 三昧田(さんまいでん)町の名前の由来
園時代の寺には住僧田・三昧田・修理田・修正田・八講田などという雑役を免じられる除田があった。ここの場合はこの西にあった臨済宗の福智堂の三昧田があって、そこに村ができたので村の名になった。福住にもさんまい田があり、柳本には三昧講という小字があるが、これは三昧講の田である。今でいえば念仏講田というようなものである。
☆ 三昧田町の村社(春日神社)の紹介
境内社に、八坂神社と素戔鳴神社が有り、素戔鳴神社は天平8年(736)の創祀だそうです。
祭神;天児屋根命、素戔鳴尊
境内に、十三重の石塔(現在は八重)や宝暦6年(1758)の石灯籠が有ります
春日神社の境内隅に地蔵堂が建てられています
「咳乃地蔵尊」と呼ばれ、子供の咳によいとされます。昔は土だんごを供え祈願し、満願の際は飴を供えたそうです。
元は、村の北外れの上街道沿いにあり、旅人の守り地蔵として六字(南無阿弥陀仏)の名号さんと言われ信仰されていたそうです(昭和5年に移転)
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☆ 佐保庄(さほのしょう)町の名前の由来
継体紀に皇太子勾の大兄皇子の妃春日姫に匝布(さほ)の屯倉(みやけ)を賜うた記事があるが、どこであろうか。ここは春日の佐保殿庄が、のちに佐保庄と呼ばれることになったというが詳かでない。さほという地名も古語で、よくはわからないが、少し小高くなった地形を指すようである。
(参考)屯倉(みやけ)とは、ヤマト王権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。
☆ 佐保庄町の村社(素盞鳴神社)紹介
創立時代等は不詳
かつて神宮寺の総堂が有り、この辺りを『堂の森』と言うそうです
大和神社の四至の一つで南西(元は)に位置しています。
祭神;素盞鳴尊
境内社:厳島神社(市杵島姫命)、大田神社(倉稲魂神)
本殿横に多くの石仏が並んでいます
地蔵仏頭(南北朝時代)、庚申(青面金剛像・江戸時代)、阿弥陀・地蔵二体石仏(室町)、阿弥陀一尊仏(室町時代)、五重石塔(鎌倉時代)などが有ります
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☆ 新泉(にいずみ)町の名前の由来
万葉集の「みてぐらを ならよりいでて みづたでの
ほづみにいたり とあみはる さかてをすぎ……」のほづみはここであるといわれているが、近頃、田原本の東、阪手と南阪手の間にほうづみという小字がありそこであるという新説が出た。
穂積の語源は刈った穂を積みおく所だといわれ、新泉は新積で、穂積を改めたのだという説があるが、詳しくはわからない。古代の穂積氏がこの辺からその西南にわたって勢力を張っていた。
(参考) 万葉集 巻13 3230 作者不詳
みてぐらを 奈良より出でて 水蓼 穂積に至り 鳥網張る 坂手を過ぎ 石走る 甘南備山に 朝宮に 仕へ奉りて 吉野へと 入ります見れば いにしへ思ほゆ
☆ 新泉町の村社(素盞鳴神社)紹介
新泉町の素盞鳴神社は、元は、字南池辺の小丘に鎮座して「一本木さん」と呼ばれていました。
昭和17年に柳本飛行場が作られたとき、現在の場所に移されました。
社前に旧社地(一本木)から移した寛延元年(1748)の石灯籠が有ります
大和神社の四至の一つで南西(元は)に位置しています。
祭神;素盞鳴尊
境内社;住吉神社
住吉神社は、もと堂の芝という観音堂の傍らにありましたが、明治8年に「一本木さん」に移されたそうです
例祭;毎年5月3日に「野神祭」が行われます
野神祭は稲作作業の始まる頃に子供(男)組が中心となって野神を祭る行事です。 田に見立てた長方形の小さな砂場で、麦藁で作った牛や馬・竹で作ったミニチュアの農具を使った耕作の儀式が執り行われます。
「野神祭り」は、天理市指定無形民俗文化財(平成13年3月26日天教告示第4号)です。
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☆ 成願寺(じょうがんじ)町の名前の由来
中世、成願寺という寺があり、成願寺庄という荘園があった。それが村の名になったのである。
大和神社の鳥居前から北に大和という垣内がある。大和神社は大和に坐す大国魂の神社であるから、もとの鎮座地の長岡を中心とした地がもとの倭の国である。それが今の大和国全体の地名になり、大和朝廷の全国統一とともに全日本の名ともなったが、その名残りを大和神社と共にここの大和にその名を残している。
やまとの語源は山戸・山門など20ほどの説があるが、出雲と北九州と大和に多い自称地名で、その他称地名がひのくにであるという説がある。
☆ 成願寺町の村社(素盞鳴神社)紹介
天皇宮とも呼ばれているようです
創祀・由緒など不詳ですが、鎮座地は大和神社の南東位置し、大和神社四至一つです。
社前に天和2年(1682)の石燈籠が有ります
祭神;素盞鳴尊
境内北側に成願寺薬師堂があって、薬師如来像を安置していたそうです(仏像は大和郡山市九条に移されたそうです)
今は公民館が建ち、横に石仏が集められています
八王子神社銘の石燈籠が1基あります
かつて集落東北の栗塚にあって、明治維新の時に、現在の地、素盞鳴神社の境内に移されたそうです
今は社殿は無くなっています
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☆ 岸田(きしだ)町の名前の由来
古代は田村から岸田の辺りは湖沼であったので岸田というという伝説があるが、川にも岸があるから、沼または川の岸にできた田と解される。新撰姓氏録に岸田臣の名も見えるから古い地名である。
岸田と中山から上街道に出た垣内を市場という。ここの市場は十市城のあった頃は盛んであったが、十市城が落ちた時、兵火にかかり、商業地は隣りの柳本の方へ移行した。
☆ 岸田町の村社(稚宮神社)紹介
元は天児屋根命を祀る「春日神社」が有り、その南隣に誉田(応神)天皇を祀る「八幡宮社」が有ったそうです。八幡宮社が本社で、春日神社が摂社だったようです。
古来この地の豪族・岸田伯耆守の崇敬が厚く、八幡宮社の宮座「岸田座」が有ったそうです。他に堺池の西堤に天押雲根命を祀る「若宮神社」があって、岸田村の産土神とされていました。
明治8年に 若宮神社をこの地に遷座
明治45年には春日神社に合祀して「稚宮神社」と称した
祭神;大国魂命、天押雲根命、天児屋根命
明治8年までは、境内に青蓮寺の薬師堂があったそうです
境内手前の小堂脇にある宝篋印塔は岸田伯耆守の供養塔と伝わっています。
岸田氏が寄進した手水鉢に安政4年(1857)銘が有ります
社前の石灯籠には寛保2年(1742)と嘉永4年(1851)銘が有り、この石灯籠2基は堺池の西堤にあった若宮神社から移されたものです
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☆ 兵庫(ひょうご)町の名前の由来
大和神社の兵庫のあった所である。古代は大社や豪族は弓矢槍刀などの武器を納める兵庫を持っていた。
石上神宮の付近においては、内馬場・木堂・三島・守目堂にあぜくらという小字があるが、ここには正倉院のような校倉があったと考えられている。あぜくらは畦に関係の地名かとも疑ってみたが、上の地方以外に見当らないから、先ず校倉のあった地と見てよさそうである。櫟本の西部にも兵庫という所がある。他所のことだが神戸市はもと神戸と兵庫と二つの村であったのを合して神戸市となったので、一方の兵庫の名がなくなったかわりに兵庫県という県名をつけたのである。
☆ 兵庫町の村社(素盞鳴神社・神護寺)の紹介
【素盞鳴神社】
「天王の森」と呼ばれる社叢(しゃそう)に有ります
大和神社の武器を納めた神社とされます。昔、兵庫には僧兵がいて、大和神社の兵器庫があったという。
兵庫から大和神社へは、北参道が通じている。これは、裏参道とも呼ばれる。この北参道沿いに、北から神護寺・素戔嗚神社が並び大和神社へと通じています。
【将軍祭(節分後の最初の日曜日)】
将軍祭は、素戔嗚神社に参拝・お祓い後の南の田(大和神社北側)で農家の人たちによって行われる弓打ち式で九ヵ大字の中でも兵庫独自のものである。呼称は、ショウグンサイのほかショウグンサンあるいはショコンサイという。昔は、節分の翌日に行われていたが、現在は節分後の最初の日曜日
祭神;素盞鳴尊
【神護寺】
かつては大和神社に南之坊・北之坊と二つ神護寺がありました。北之坊(現在の社務所の北側に)にあったとされ、南之坊(現在の新泉町の素盞嗚神社付近に鎮座)が現在の場所に移したのが現在の神護寺です。寺門は内山永久寺から移建したものです
本尊;阿弥陀如来坐像
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☆ 長柄(ながら)町の名前の由来
神武紀に現われる臍見長柄の丘岬はここであるといわれている。ながらという言葉も古語でわかりにくいが、アイヌ語では、川から丘地へゆく途中の土地、または、よく見える眺望のよい所をさすようである。
『日本書紀』神武天皇即位前紀己未年2月20日条に見える「臍見長柄丘岬」を当地に比定する説もある(文脈上から御所市名柄町に比定する説もある)。
☆ 長柄町の村社(白堤神社)紹介
古事記にあるこの歌【大和は 国のまほろば たたなづく 青かぎ 山ごもれる 大和し 美し】は、日本武尊が投獄からの帰り、はるかに大和国を思い出して歌われたものと伝えられている。
景行天皇の命をうけ、国の繁栄のため、九州から出雲国、さらに関東から東北へと進まれたが、その帰り、伊吹山で病にかかり、、能煩野(亀山市内)で亡くなられた。ところが、尊の魂は白鳥となって陵から飛び立ち河内へ、さらに大和へ向かったと伝えられている。
日本武尊のこうしたロマンに満ちたご活躍を偲び、御神徳のいよいよ広まるように全国各地で日本武尊を白鳥大明神としてお祭りするようになった。
白堤神社は、県下で尊をお祭りするただ一つの神社である。平安時代に国から幣帛を授受する延喜式内社に指定された」
祭神 日本武尊(景行天皇の皇子)
【鎮座地】旧社地は現在地の南二町白鳥池の西堤上にあつたが、第二次大戦中飛行場建設のため小学校々庭に奉遷 昭和21年10月、現在地に遷
【境内社】大熊神社・稻荷社・三社神社・愛宕神社・龍王神社
大熊神社
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皇女渟名城入姫命(ぬなきないりひめ)に勅して市磯邑(大和郷)に移された命。当神社の創建をみる。
例祭 4月1日 天理市岸田町市場に鎮座
鎮座地は市場の西方にあって、境内わずか108平方メートルである。
大和神社の境外末社で、大和神社創祀の斎女である崇神天皇の皇女渟名城入姫命を祀る。
「神社啓蒙(じんじゃけいもう)」に「大和所摂宮大神一座」とあるのは、この神社のことである。
社前の石灯篭に「斉持御前 宝永四年(1707)十二月二十一日 岸田町中」 花立に「奉納 斎持御前」とあるが、ともに「斎侍御前」の誤字で、土俗なまって"サネゴゼン"といっている。
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大和神社神輿お渡り(ちゃんちゃん祭り)の途中、上街道にそった岩懸(いわかけ)神社とよぶ社地の石台に小憩される。
社地は広さ129平方メートル地内に「大和大明神 宝暦四年(1754)九月吉日 岩懸 岸田邑中 同町中」の石灯篭がある。
中世兵乱のため神社が衰徴(すいび)し、当社地が縮小中断されて、今日のような西方の社地(渟名城入姫神社)と、東方の社地(岩懸(いわかけ)神社)とに二分されたのである。
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大和神社の境外摂社で「御旅所坐神社」(別称・
大和稚宮神社)です
祭神;
日本大国魂大神
八千矛大神
御年大神
ちゃんちゃん祭;4月1日
大和の春は「ちゃんちゃん祭」とともにやってくるといわれます
大和神社例祭(ちゃんちゃん祭)渡御は、氏子の頭屋・雅児を先頭に夫々の町内人供奉し行列順に各執物を捧持し、ちゃんちゃん鐘を合図に成願寺・岸田を経てこの大塚山の御旅所まで約2kmを往復渡御する。この御旅所では翁舞・龍の口舞の田楽舞が奉納される。