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大和神社は日本最古の神社です。御祭神は日本大國魂(やまとおおくにたま)大神です。大和神社の公式サイトで、由緒・祭典・神事の予定・各行事の動画紹介等を行っています。

TEL. 0743-66-0044

〒632-0057 奈良県天理市新泉町306

大和神社年表HEADLINE

はじめに


 大和神社は、「延喜式」神名帳の大和国 山辺郡の筆頭に「大和大国魂神社三座」とある。山の辺の道の西方、東西に長く伸びた大地の上に鎮座し、参道は200Mと長く続き、境内地は26.367㎡あり、全体は長大な森を形成しています。 大和神社は、式内名神大社として、祈年のほか月次・相嘗・新嘗祭や祈雨・止雨に際して官幣を賜ったが、古くは持統天皇六年五月、藤原宮地を定めるにあたって朝廷より伊勢・住吉・紀伊・兎名足の四社とならんで、奉幣を受け、また、同年十二月には新羅の調物を奉納された。
 「大倭国正税帳」によれば、天平二年(730)には山辺郡神戸稲・組み合わせて1.041束を祭祀料にあてられ、「新抄格勅符抄」によれば、天平勝宝元年(749)より大同元年(806)まで大和・尾張・常陸・安芸・出雲・武蔵の諸国に、伊勢神宮に次ぐ327戸の神戸を有していた。また、神階は貞観九年(859)正月に従一位、寛平九年(897)正一位を受け、伊勢神宮に次いで重視されていた。
 斯様に尊い御由緒は類まれなところでありますが、永久六年の火災を境にしだいに衰えていきました。また、天正の兵火(1583)の火災により、神領の書類をすべて焼失し、江戸期には、境内東西四町、南北三町の樹木鬱蒼たる広い神域を保持するのみで、無縁の状態となっておりました。しかし、明治五年に官幣大社となって、翌年五月には新社殿の造営もなって一新しました。
 大和神社の由緒等については、いろいろな古文書・参考文献などに、散見できますが、断片的な資料で、これを関連付けて理解するには、困難なことが多いことから、『大和神社年表』として、取りまとめました。大和神社の歴史を知って頂くお手伝いになれば幸いです。
和神社年表
西暦 和  暦 出     来     事
BC475 孝昭天皇元年7月 夢告により 天照大神と 倭大国魂神 を大殿の内に並祭する
BC92 崇神天皇6年9月 倭大国魂神を淳名城入姫命に託して市磯邑に祭る。然るに淳名城入姫命は髪落ち体痩せて祭ること能わず
BC91 崇神天皇7年8月 大水口宿禰等が夢を同じくして、市磯長尾市を祭主とすベきと奏ず(注1)
672 白鳳4年 丹生川上神社創建
 「丹生川上の主祭神高龗神は、高龗神社の分祀である。と言うことは、高龗神社の創建は、詳ならざれども、これ以前となる。」
692 朱鳥6年5月 藤原遷都にあたり朝廷より伊勢・住吉・紀伊・兎名足の四社とならんで、奉幣を受ける。
730 天平2年10月20日 山辺郡神戸稲・組み合わせて1,041束を祭祀料に当てていた。  ≪正倉院文書に記載有り『大倭国大税帳』≫
733 天平5年 山上憶良:好去好来の歌(遣唐使に送る)    万葉集
749~ 806 天平勝宝元年~大同元年 大和・尾張・常睦・安芸・出雲・武蔵の諸国に、伊勢神宮に次ぐ327戸の神戸を有していた。    『新抄帖勒符抄』
824 天長元年 長岳寺は、淳和天皇の勅願により空海(弘法大師)が大和神社の神宮寺として創建した。
850 嘉祥3年 従二位 『文徳実録』
859 貞観9年 従一位『三代実録』
869 貞観9年 従五位下『三代実録』   ≪朝日神社≫
897 寛平9年 正一位『社伝』    伊勢神宮に次いで重視されていた。
905 延喜5年 醍醐天皇の命により藤原時平らが編集された「延喜式」神名帳の大和国 山辺郡の筆頭に、大和坐大國魂神社三座と記されている。
1069 延久元年 新富(新泉)荘に大和神田二反『延久雑役冤帳』
1118 永久6年2月9日 火災により神殿・霊形すベてを焼失した
1167 仁安2年2月13日 「大 倭 神 社 注 進 状」を大倭神社の祝部大倭直歳繁が国司に提出
1187 文治3年2月  源頼朝は当社に国家鎮護を祈念し、その報賽に文治3年2月太刀一振を奉納されたことが庁中漫録に記されている。
1407 応永14年3月20日 御渡祭(ちゃんちゃん祭り)の起源について詳でないが元御輿御休所の台石に応永14年3月20日とあるのでこれより以前であるか。
 ≪元御輿御休所の台石とは、第一鳥居前の社標の台石 ≫  (注2)           
《尋尊大僧正記》にちゃんちゃん祭りの記録あり  (注5)
1459 永禄3年4月1日 今日、大和神社神事也 (永禄3年4月1日の日記)
1481 文明13年4月1日 昨日、大和神社神事 神輿二基御出(文明13年4月2日の日記)
1491 延徳3年4月1日 大和明神祭礼也中山寺に神向 (延徳3年4月1日の日記)
1565 永禄8年(注6)  永禄の兵乱により、勅使の御参向なかりければ、其れより其御代として、千代山鉾を奉持して供奉する。
 千代山鉾神輿(担ぎ手4人) (ちゃんちゃん祭り千代山鉾(兵庫町常持)) (官國弊社特殊神事調)
1583 天正11年 天正の兵火により神領の反別書類等すベて焼失
  ≪社殿焼失の際、中山村の歯定神社に一時移坐≫
1584 天正12年 天正の兵火により千代山鉾焼失の為、略して1人持ち(現在の形)となった。  (官國弊社特殊神事調)
1689 貞享6年11月 手水舎造営     (手水鉢に銘あり)
1791 寛政3年 大和名所図会 に 例祭四月朔日と記載   (注7)
1852 嘉永5年 本殿三社、氏子寄付を以て修理
1869 明治2年 本殿その他官費にて修理   神社境内各社の整備工事が官費で計画・実施が始まった。
1871 明治4年5月14日 官幣大社
 (太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」により制定)
1873 明治6年  古くからの伝統に従って、大和郷九ヵ村( 新泉 ・ 成願寺 ・ 兵庫 ・ 長柄 ・ 岸田 ・ 佐保庄 ・ 三味田 ・ 萱生 ・ 中山 )の郷社も兼ねることとなった。
1874
 明治7年  本殿三殿御造営
1874 明治7年 社務所
 北之坊『石和見聞志』に「當社祠官一人もなし。北ノ坊とて社側に別當の僧房あり。住職は近所なるに因つて釜ノ口寺より來ると云へり」とある。
 
維新の際社務所に移転・改造された。 (注3)
1874 明治7年11月 祖霊社    明治政府の許可を得て旧本殿をここに移築し創建
1874 明治7年 御霊代は、二度の火災で焼亡し、焦石を神体としていたが、現在の御霊代----玉 (大國魂神) ・ 鏡 (御歳神) ・ 剣 (八千戈神) ---- は、明治7年朝廷より奉鎮された。
1875 明治8年2月19日 朝日神社
 『大和志』には、「朝日豊明姫神祠佐保庄村観音寺境内ニ在リ、今妙見ト称ス」とあるが明治八年に大和神社境内に移された。
1875 明治8年4月 道程標(社標)建設
  「官 幣 大 社 大 和 神 社」と表記 (白木造り)
1877 明治10年 狭井神社は、大神神社の摂社に指定せられた。
  これまでは、狭井神社は、大和神社の別社であった。
1884 明治17年5月 高龗神社神社本殿改修
  古殿(旧本殿)払い下げをうけ改修
1885 明治18年9月 道程標  佐保庄字朝日西間道口に建設
1887 明治20年4月 増御子神社本殿改修
1887 明治20年5月1日 御神楽祭(5月1日)   明治20年~明治37年まで執行す。  明治38年以降は、舞奏なしで、斎行されている。現在は、4月2日に斎行。
1888  明治21年  市町村制発布により
「新泉・岸田・成願寺・中山・萱生・竹之内・乙木・永原・長柄・三昧田・兵庫・佐保庄・園原・福智堂・杣之内」の15村で新村を創設し「朝和村」と名付けた。
村名の「朝和」は、朝日寺の「朝」と大和神社の「和」をとったものである。(注8)
 
 ※『杣之内」は、明治35年に、分かれて丹波市町になった。
1889 明治22年2月 狛犬建立(石造り)
 朝和村大字佐保庄 藤野嘉平寄贈
    (神社古文書 明治24年 境内繪図面建物明細帳)
1893 明治26年10月 道程標(社標)を石標に改修  「官幣大社大和神社」と表記
1896 明治29年1月30日  日清戦争記念碑建立 (朝和地区出身の軍人55名の名刻)               ≪一の鳥居南側≫
1897 明治30年 境内地4畝8分 国鉄桜井線路線用地として譲渡
   明治31年5月11日 京終~桜井間開業
   大正3年 8月20日 長柄駅開業
1905 明治37年11月 一の鳥居 石造に改築
1908 明治41年 渟名城入姫神社は、大和神社の境外末社となった(式内社調査報告(1982))
1909 明治42年 四至(北西)の市杵島神社(福智堂町)を永原町の御霊神社境内に遷座
   
昭和24年12月15日 神社古文書(陳情書)  (注4)
1913 大正2年9月30日 渟名城入姫神社造営
   (神社古文書 明治24年境内繪図面建物明細帳)
1921 大正10年 粥占祭  大正10年以来年々執行す。
  (官國弊社特殊神事調)
1923 大正12年3月 祖霊社屋根修繕
1941 昭和16年 「堂本印象画伯作日本画《戦艦大和守護神》制作         戦艦大和を竣工するにあたって、海軍は艦名を伏せて、縁のある画題で大和神社の御分霊を祀りたいと奈良県へ発注した。それを受けて、奈良県が印象に依頼し制作された。「戦艦大和艦長室」に掲げられていた。
1942 昭和17年 新泉町の素盞鳴神社現在地に移転
  柳本飛行場(大和海軍航空隊飛行場)が作られたとき、字南池辺の小丘に鎮座して「一本木さん」と呼ばれて場所から、現在の場所に移されました。
1944 昭和19年 長柄町の白堤神社小学校内に遷される。
 現在地の南約200mの南池(白鳥池)の西堤上にあったが、大戦末の昭和19年、大和海軍航空隊飛行場建設のため池が埋め立てられ、社も取り払われて小学校内に遷される。
1946 昭和21年2月2日 元官幣大社
 (連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の神道指令により神社の国家管理が廃止)
1946 昭和21年9月 長柄町の白堤神社現在地に遷座
 池の北側にあたる現在地に社殿を新築して遷座した
1953 昭和28年 戦艦大和慰霊祖霊社に合祀 (2,717柱)
1958 昭和33年9月23日  43年ぶりに「しで踊り」復活
 大和郷婦人部により、「紅しで踊り」として復活
1969 昭和44年7月8日  広島県呉市元呉軍港宮原の高台に「噫戦艦大和之塔」建設に際し、同委員会理事長(戦艦大和進水式当時責任者、元海軍中将)庭田尚三氏は当神社崇敬の念篤く御分霊拝戴の懇請に依り、同日御分霊を同塔内に奉鎮す。
1972 昭和47年9月24日  戦闘巡洋艦 矢矧外駆遂艦8隻の戦没將士英霊をも合祀して、3721柱は国家鎭護の神として祀られている。
1977 昭和52年10月  国道169号線沿い(大和神社前バス停)に 「大和神社」 道程標 建立
 笠松新次氏の、中小商業界の育成指導と振興発展に多年努力せし功により、双光旭日章の受章を記念し、商業界有志により建立
1977 昭和52年11月6日 忠魂碑建立
   朝和地区戦没将士260柱の鎮魂の碑建立 
1997 平成9年3月31日 紅しで踊り
 天理市指定無形民俗文化財に指定 (平成9年3月31日天教告示第12号)
1999 平成11年2月 手水屋復元
 平成10年9月22日の台風7号により全壊した手水屋を復元
2001 平成13年3月26日 新泉町「野神祭り」
 天理市指定無形民俗文化財 (平成13年3月26日天教告示第4号)
2005 平成16年6月30日 茅の輪くぐりの始まりは 平成16年6月30日以来年々執行す。
2005 平成16年12月10日 高龗神社建替 (遷座祭斎行)
2005 平成17年8月7日 戦艦大和慰霊祭斎行  平成17年より毎年8月7日に斎行す。
2008 平成20年 大和神社 ホームページ 公開
2010 平成22年4月 長柄駅前に「小さい赤の幟」を掲げる。
 以降毎年ちゃんちゃん祭り期間は、「小さい赤の幟」を掲げている。
2010 平成22年12月 献灯提灯を掲げた。
 以前からの献灯提灯を廃棄し、新規に取り組む平成22年の歳末から新春及び節分祭に献灯しています。
2011 平成23年3月10日 本殿三殿改修(御本殿遷座祭斎行)    《平成大修理》
2011 平成23年8月 戦艦大和展示室建立
2012 平成24年3月21日 増御子神社改修(遷座祭斎行)     《平成大修理》
2012 平成24年8月5日 ゆかりの碑建立(除幕式)
2012 平成24年8月10日   井戸舎建立         (四国奉賛会員)
2012 平成24年8月22日 朝日神社、事代主神社、厳島神社の改修移設(遷座祭斎行)                      《平成大修理》
2014 平成26年3月11日 歯定神社本殿改修(遷座祭斎行)     《平成大修理》
2014 平成26年7月20日 丹生川上神社、(水の神)の祭典
 延喜式にのっとり、大和神社宮司・稚児が参加して1,300年ぶりに復活。 吉野の丹生川上神社は、高龗神社の分祀ということ。
2015 平成27年3月1日 大和神社ホームページ リニューアル公開
  同年9月14日  ブログ開設「大 和 神 社 裏 方 日 記」
2015 平成27年8月5日 万葉歌碑「好去好来」建立(除幕式)
2015 平成27年12月10日 社務所横の池・水路及び社務所北側の整備工事完成
  《平成大修理》
2015 平成27年12月31日 紅しで踊り保存会 奈良県神社関係者大会 表彰記念碑建立
2016 平成28年6月23日 「祖霊社」改修工事完成(遷座祭斎行)
  《平成大修理》
2016 平成28年9月23日  神社境内の防犯設備工事完成    《平成大修理》
 監視カメラ・フレームチェッカー・火災センサー等の設置
2017 平成29年2月10日 御田植祭において、112年ぶり「田植歌」復興
2017 平成29年3月13日   倉の修復工事完成      《平成大修理》
       平成大修理の工事すべて完成
 2018  2月2日  ちゃんちゃん祭り 奈良県無形民俗文化財に指定
 2018  8月3日  ちゃんちゃん祭り 奈良県無形民俗文化財に指定の記念碑建立
     現在に至る



(注1)
当初の鎮座地
             
垂仁紀に穴磯邑・大市長岡岬とあり、この地の推定地として

  1.  崇神朝に城上郡の穴師兵主神社の地に渟名城入姫に託して祭り、垂仁朝に長尾市によつて現大和神社の地に祭つた。大市長岡岬は穴師明神の地である
  2.  大市長岡岬は、現長岳寺のある上長岡の地で、最初の鎭祭地は長岳寺北山上、あるいは長岳寺上方の広場とする。東南約1.5km釜口山長岳寺(天理市柳本町)
  3.  大市は城上郡大市郷の地。現狭井神社西方突出部。
  4.  桧原神社西方突出部。桧原神社の前面に広がる台地の先端部、小字上ノ山。
  5.  巻向山尾崎

大市は城上郡(しきの かみぐん)大市郷ですから現在の箸墓のある場所付近を指します。ですから穴磯邑とは邑=都 随分と大きな地域を指していた事になります。長岳寺と穴師の距離は南北3㌔、そして箸墓も含みますから桜井市穴師から天理市柳本町の長岳寺を含み尚且つ、大都市を示す大市の箸墓付近も含む広大な地域を指していたと考えられる。
〖参考〗大神神社の摂社である、狭井神社は、大和神社の別社であった。(日本の神々)
古老の話では、明治10年頃大神神社に移されたとの事 
 (古来はこの辺りは大和神社領であった推測)  

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2

一鳥居前にある社標の台石は、かって神幸のときの神輿の台石として使われていたもので、側面三方に各狭間が刻まれ、他の一面に陰刻銘がある。
中央に「大和大明神」、両側に「応永十四年(1407)三月廿日、大施主桑門俊印」とある。石は、方形の花崗岩で高さ64Cm、幅87Cm。寛政三年(1791)の「大和名所図会」には一の鳥居中央下に描かれている。

3

神宮寺、北之坊と称し僧侶住職す、維新の祭神仏混清廃せられ因って旧神官茲に住す。明治5年 社務所と改装す。(神社古文書 明治24年 境内繪図面建物明細帳)

  (参考)
 神護寺、南之坊又は勧源坊と称し、もと大和神社の南、字勧源田にあつたが、何時の頃か、建物は北方の兵庫町の「神護寺」の現在地に移つた(御本尊の所在は不明)

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(4)

大和神社の四至は、           

社地はやや高い場所に鎮座、大和神社の森は極めて大きく長い。東側の一の鳥居から参道が200m位続いている。巾は30m程度である。 社殿のある杜は大きく広がっている。首の細長い壺のような神域である。しかし、かっては八町四方と巨大な神域であり、四至を固めていた神社があった。

      【四至の固め】(耕作地・所有地・社域などの四方の境界)
南西  素盞鳴神社(新泉町)の元の鎮座地(一本木さん) 
南東  素盞鳴神社(成願寺町)
北東  素盞鳴神社(佐保庄町)
北西  市杵島神社(福智堂町)(現在この地は、畑となっておる。)

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(5)   

《尋尊大僧正記》 じんそんだいそうじょうき

興福寺大乗院第20世門跡尋尊の日記。その自筆本が,《寺務方諸廻請》12冊,《大乗院寺社雑事記》167冊,《尋尊大僧正記》20冊に分かたれ,内閣文庫に所蔵されている。なお《安位寺殿御自記第五十二》として《経覚私要鈔》に混入されている1(長禄31112)も尋尊の日記である。
 その日記「尋尊大僧正記」は興福寺に関することだけではなく、この時代を知る上での必須の資料である。
 尋尊(じんそん、永享287日(1430825日)- 永正552日(1508531日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての奈良興福寺の僧。父は一条兼良。母は中御門宣俊の娘。興福寺180世別当。大乗院第20代門跡。 

(6) 
    
永禄の変は、永禄8519日(1565617日)、三好義継、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)と松永久通らの軍勢によって室町幕府第13代将軍足利義輝らが京都二条御所に襲撃され、殺害された事件である。近年では、他に「永禄の政変」と呼称されることもある

(7)   

名所図会は、江戸時代末期に刊行された江戸・畿内をはじめとして諸国の名所旧跡・景勝地の由緒来歴や各地の交通事情を記し、写実的な風景画を多数添えた通俗地誌
      
大和名所図会(寛政3年(1791年)刊) 秋里籬島・著、竹原春朝斎・画

(注8)
 佐保之庄に朝日寺と朝日神社があったが、明治8年に朝日寺は廃され、朝日神社は、大和神社に移された。

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大和神社

〒632-0057
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御朱印